へいじーとじょうぜん。

上善如水がお酒なのですよ。

大学設置基準第十条第一項

 (授業科目の担当)
第十条 大学は、教育上主要と認める授業科目(以下「主要授業科目」という。)については原則として専任の教授又は准教授に、主要授業科目以外の授業科目についてはなるべく専任の教授、准教授、講師又は助教(第十三条、第四十六条第一項及び第五十五条において「教授等」という。)に担当させるものとする。
2 大学は、演習、実験、実習又は実技を伴う授業科目については、なるべく助手に補助させるものとする。
 

大学設置基準(昭和三十一年文部省令第二十八号)

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=331M50000080028 

 

 大学設置基準という法令がある。引用のとおり元は文部省令で、学校教育法の細目を定めるものである。これは大学行政の上では中々に重要なものと仄聞するが、いかんせんニッチな分野であることから、その逐条解説なり研究なりといったものもあまり見ないし、まして大学で大学設置基準が講じられているというのも聞いたことはない。

 よって、その法意というようなものを探るのには、恐らくは文科省にメールなり手紙なりを送りつけるのが一番早いような気がするが、その辺はそういう厄介の常習犯各位にとりあえずはお任せしようと思う。

 ここで書き留めておきたいのは、研究能力と教育能力という二つの能力の別である。教育学部は大学教員を養成するわけではなく、大学教員たる研究者は別段教育学的なトレーニングを受けているわけではない、というのは周知のことと思う。まして、講師→准教授→教授とキャリアを重ねていくにつれて教育能力が漸次向上していく、というものでもないということは了解いただけるであろう。

 そうであるならば、前掲の大学設置基準第十条第一項はなぜ主要授業科目の望ましい担当者から講師と助教を排除したのだろうか。

 大前提として、講師と助教に教育能力がないということはない。これは事実としてそうだ、というのみならず、次の条文から建前上もそうであることが分かるであろう。

第十四条 教授となることのできる者は、次の各号のいずれかに該当し、かつ、大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力を有すると認められる者とする。
(略)
 
(准教授の資格)
第十五条 准教授となることのできる者は、次の各号のいずれかに該当し、かつ、大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力を有すると認められる者とする。
(略)
 
(講師の資格)
第十六条 講師となることのできる者は、次の各号のいずれかに該当する者とする。
一 第十四条又は前条に規定する教授又は准教授となることのできる者
二 その他特殊な専攻分野について、大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力を有すると認められる
 
(助教の資格)
第十六条の二 助教となることのできる者は、次の各号のいずれかに該当し、かつ、大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力を有すると認められる者とする。
(略)
 

大学設置基準(昭和三十一年文部省令第二十八号)

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=331M50000080028

 まず第一点として、講座制の残滓を感じることはできよう。要するに、民法講座といった教員組織を前提として、主要科目はそこの長たる教授が責任を持ちなさい。講座のないようなマイナーな科目については建前としても主任教授がいないだろうから講師を委嘱するのも差し支えない、というような。法学畑だと中々聞かないことではあるが、名目上はボス教授の担当授業でも実際に講義をしているのは准教授(助教授)以下、ということも昔はあったように聞く*1
 あるいは、このような規定を設けることによって、主要科目についてはこれを専攻する専任教授を確保することを間接的に促す意図に出た、という可能性もままあるように思える。とはいえ、憲民刑と行政法の教員が揃っていない法学部、というのも中々観念しにくいところであるが*2、まぁ理工系など専攻が多岐にわたるところだとまた勝手も違うのかもしれない。
 
 ここまで長々と書いたが、結局のところ、「専攻の基礎となる科目ぐらいは手前の専任教員、それもキャリアのある奴で回せ」という意図はどうしても見えてしまう。しかし、これが必要なことかと言われると疑問符は付く。研究者の待遇の酷薄さや多忙といった話は語り尽くされた感があるが、特に教授クラスに一年生の民法総則や憲法総論を教えさせることは果たして必須のことなのだろうか。ここで最も言いたいことを再度書くと、研究能力と教育能力は全くの別物だということである。一部には自らのキャリアにおいて涵養した学識を随所に溢れさせながら、法学のなんたるかをほぼ知らない学生相手に迫力ある講義をする、という教授もいないことはない。それは事実である。他方、極めて退屈そうに、あるいはヒステリックに、より一般的には毒にも薬にもならない講義を展開する教授が大多数である。そうであるならば、彼らにはなるべく研究と大学行政と後身の育成と*3に専心していただき、学期末に一年生の書き殴った500枚レベルの答案を採点させることもなかろう、というのが私の意見である。非常勤ポストが欲しいD生は腐るほどいるのである。むしろ初年次生に見せるべきは彼らの才気煥発な姿、という気さえする。
 
 実際、主要科目を他大学からの非常勤で回していた例を知らないわけではないが、決して多くはないのはこの条文によるところが多いだろう。私は大学行政のレベルを決して高いものであるとは考えてはいないが、かといって無駄に手足を縛ることもないのではないか、と思うのである。その源に、あたかも研究能力と教育能力にありもしない相関関係を見出す考えがあるとすれば、それは勘弁被りたい、と思うところ。

*1:旧助教授の職掌は「教授を助ける」ことであったにしても、それとは別の問題としてこのような運用が建前のレベルで許されていたのかについてはあまり言及しない

*2:この規定に関係なく、教員組織の不備として大学評価でぶん殴られること必定である

*3:特にTwitterで腐っている学者にはあたかも大学行政が自らの本務ではないかのように振る舞う輩が多いが、研究・教育・大学行政の三つが彼らの仕事である。この辺は気が向けばそのうち書くかもしれない